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明治生命保険相互会社本社本館

 昭和初期におけるオフィスビルの最高峰。
 日本人建築家による西洋様式建築の最高傑作!

  平成24年の正月14日,高校同級生の散歩仲間と訪れた。いつもは4人の常連が,8人となる賑やかな散歩となった。
 明治生命館が竣工したのは昭和9年(1934)3月。日本が満州事変から日中戦争へと突き進んでいった時期に当たる。戦時中の金属回収,東京大空襲,そして戦後は,アメリカ極東空軍司令部として使用するため接収され,米・英・中・ソの4カ国代表による対日理事会の会場として使用されるなど昭和の激動の時代の記憶が刻み込まれた建造物である。

 設計は,明治末から昭和初期にかけて活躍した東京美術学校(現東京藝術大学)教授の岡田信一郎(大阪公会堂・大阪高島屋・歌舞伎座・東京府立美術館・府立第一中学(現日比谷高校)など数々の傑作を生み出す。明治生命館の完成を見ることなく昭和7年(1932)4月48年の生涯を閉じる)・岡田捷五郎(意匠,信一郎の弟)・内藤多仲(構造,東京タワーの設計を手がけた)。
 構造:鉄骨鉄筋コンクリート造,地上8階,地下2階
 規模:敷地面積 11,347u,建築面積 3,856u 延べ面積 31,762u 軒高 約31m
 施工:竹中工務店 第14代当主竹中藤右衛門自らが一貫して現場で陣頭指揮を執り建築主と設計者の想いを的確に形にすべく施工品質の確保に心血を注いだという。
 【国指定重要文化財(1997 指定)】(昭和の建築として初)  
お堀端に面した西面の外観

 古代ギリシャ・ローマを源流とする古典主義様式。5層分を貫く巨大なコリント式の列柱が圧倒的な力感をみせる。列柱はエンタシスと呼ばれる視覚矯正のための微妙なふくらみが付けられ上へ行くほど細くなっている。建物全体は3つの層に分れ,下層に重厚な粗石積みの基壇階を築き,その上に列柱からなる主階,さらにその上に屋階を軽やかに載せて,古典主義建築の伝統的んば壁面分割が踏襲されている。  

 明治生命館の歴史
設計コンペで岡田信一郎案を採用:昭和3年(1928)設計を依頼された建築顧問の曽根達蔵が,指名コンペ方式を提案し,当時を代表する建築家8名を推薦。採用されたのが東京美術学校教授の岡田信一郎の設計案。
起工&竣工:起工は昭和5年81930)9月。間もなく岡田は病に臥し昭和7年(1932)4月急逝。当初から設計に参画していた実弟の岡田捷五郎が後任に就き,昭和9年(1934)3月31日竣工。
GHQによる接収: 昭和16年(1941)から始まった金属回収令で,意匠的に「優れた金属製品の多くが供出された。そして終戦。昭和20年(1945)8月連合国軍が進駐を開始。アメリカ極東空軍司令部として使用するため接収される。米英中ソ4カ国による対日理事会の会議が2回会議室で計164回も開かれ,マッカーサー連合国軍最高司令官も何回もこの会議に出席したと言う。
接収解除と全面復旧:アメリカ軍からの返還が正式に決定されたのが昭和31年(1956)。同年7月18日返還式が挙行された。返還後の復旧工事は昭和31年末に完了。
重要文化財に指定:その後も建物の改修・修理,設備の更新などが行われ,往時の姿を今に伝える建造物として平成9年(1997)国重要文化財に指定される。
基壇階

 窓グリル,ランタン型照明器具が目を引く。 

店頭営業室

 大空間に柱が林立する店頭営業室は館内で最も荘厳な雰囲気が漂う空間。イタリア産の各種の大理石が用いられている。漆喰と精緻な石膏彫刻が施された天井,中央部のガラス屋根のトップライトから柔らかな光が降り注ぐ。現在は丸の内お客様センターとして使用されている現役空間である。

会議室

 アメリカ極東空軍司令部としての接収期間中,米英中ソの4カ国代表による対日理事会の会場として使用されたのがこの会議室。外国産のチーク材が多用されている。
食堂

 天井や梁に施された石膏レリーフには,ぶどうと蔦がデザインされている。手前に調理室から料理を運び上げる配膳用エレベーターが3基設置された配膳室がある。
 
ラウンジ

 
見学者用の待合室となっている豪華な空間。見学者はまずここに入ってゆったりしたソファーに座り荘厳などでかい空間に度肝を抜かれる。

 
アンモナイト化石

 店頭営業室の床は,中生代ジュラ紀(2億年前〜1.35億年前)のイタリア北部産の赤色大理石が敷き詰められていて,よく見ると数個のアンモナイト化石を見つけることが出来る。アンモナイトは古生代後半から中生代全般にかけて世界中の海に繁殖し中生代の終わり(6500万年前)に絶滅するまで1万以上の種に分れた。それぞれの種の生存期間が短くかつ世界中に広く分布するため重要な示準化石となっている。